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はじめ通信・子どもと教育のはた4−718
長崎の事件が提起している問題(その2)

(3)事件を生み出す子どもの生育環境とは

●長崎の同級生殺害事件をきっかけに、「もっと人や国を愛する心を育てる教育が必要だ」と言って教育基本法改悪の口実にしようとするような動きが自民党幹事長はじめ一部の政治家に広がりましたが、「事件を政治の道具にするな」との世論の機敏な反応を見たのか、その後はこの種の議論は下火になりました。せいぜい石原知事の、今の子がすぐ切れるのは、大人社会と親の責任だから、もっとこらえ性を身につけさせる必要があるという趣旨の発言に、都議会の多くの政党・議員が相槌を打っている状況です。

●子どもたちの状況を自分たちの子ども時代と比較して「あれが足りない、ここがおかしい」とあげつらね、「心の教育」とか「我慢を教える」などといってしばりをかけるやりかたは、真の社会的背景となっている問題から目をそらし、本来の解決の道をますます遠のかせる役割を果たし、またやり方によっては、子どもの大人社会への不信をますます高めて、問題を一層深刻化させることにもなります。

●さらに問題なのは、子どもを大人社会の、それも弱肉強食の論理で評価し管理する教育が最近異常なほど強まっていることが、ちょっとしたことで切れるところまで子どもの人間関係や心理を追い込んでいると言うことでしょう。
 石原都政のように、これまでの教育を「悪平等」と決め付け、競争原理を徹底して「たくましく」育てろと言う露骨なやり方はもちろんですが、表現はマイルドでも、「できる子」にはますます熾烈な競争を与え、「できない子」には早めのあきらめと脱落を求める流れがこの10数年で大都市や地方を問わず、しっかり行き渡ってきていることが背景にあることは間違いないと思います。
 だからこそ、それに耐え切れない子どもによる新たな非行問題が、かつて非行の3大原因と言われた貧困や家庭崩壊や低学力と対照的に、熾烈な競争をけなげに頑張っている、豊かで教育熱心な家庭の高成績の子どもたちから異常な凶悪事件という形でおきるようになってしまったのです。

●長崎の被害・加害少女二人の間には、トップクラスの成績を争っているライバル同士という大人社会と同じ競争の実態と、それによる激しい競争意識が存在していたはずです。
 ところがそれがあまりに日常化しているので本人たちでさえほとんど意識しておらず、表面的には何でも打ち明ける親友としてつきあっている・・。こうした関係は、いったん壊れ始めると、すぐ激しい憎しみに逆転してしまうことは、誰でも経験があるでしょう。

●戦後の日本社会は圧倒的に労働者が増えて、たとえばイギリスなどのように階級や階層間での生活レベルやスタイルの決定的な違いはありません。出世のチャンスは、原理的には誰にも開かれています。
 ですから学歴社会が崩壊しつつあるにもかかわらず、高い成績をあげ高学歴を獲得していこうという意識は、戦後の長い経済成長を支えた教育原理として未だに強いし、子どもの社会的地位の高さを保証する確実な道がほかにない限り、それを追い求める家庭はなかなか減らないでしょう。

●長崎の事件で気がつくのは、二人ともある意味でハンディーを乗り越えて「できる子」になってきたことです。被害少女は母親をなくし、父親を助けながら頑張ってきたし、加害少女は、父親が障害者で収入が少ないことから子どもに期待をかけ、おそらく彼女もけなげにそれに応えてきたのでしょう。
 彼女らは、肉親の死や苦しみを人一倍知っているからこそ無理を続け、コンプレックスを抱えながらも、それを人前では出さずに暗黙の「カマトト」「ブリッ子」を演じながら、相手にそれを許せなくなったとき、悲劇が起きたのではないでしょうか。

●大人社会のひずみが大きくなればなるほど、彼女らのような重すぎる荷物を背負い、先々がまったく不透明な“過当競争”に追いやられる子どもが増えることは間違いありません。
 数年前に連続した「殺してみたかった」という心理の凶悪な事件とは違った様相ですが、教育の場に競争原理が根深く徹底されてきた中で、最も激しい競争を強いられている「できる子」の中での心理的な破綻や脱落の集中的な現われという点では共通した背景を持った事件であることは明らかです。
(つづく)

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